慶長6年(1601)の検地によれば、下松浦に27戸との記録が残り、当時としては大きな集落であった。安政年間1772年になって、下松では縁起がよくないからと「盛松」に浦名を改めた。絶好の漁場(権利)を持っていたといわれるが、漁場があっても荒磯のために船着場がなく、物資も山坂を越えて運んでいた。明治7年(1874)の戸籍簿によると、盛松には27戸126人だったが、電気もつかないことから、昭和2~ 3年に全戸が三木浦の湾奥「コノワ」地区へ移住した。神社、寺院、屋敷跡などの石垣が残る。
元盛松
頼母は盛松の枝郷といわれ、慶長のはじめ頃、三重県南伊勢町道行竈から4人が移住し、製塩をはじめたといわれている。そのうち盛松に移って塩の生産に励んだとされ、年貢も米・麦ばかりでなく塩も換算して納められた。また盛松の兵九郎は頼母で新田6反3畝6歩を得て稲作を始めた。昭和43年まで牛を使って耕作をしながら人が住んでいた。山の神や頼母神社跡、そして水田地跡から豊かな暮らしぶりがうかがえる。
頼母
延々と伸びる猪垣に囲まれて昭和43年まで稲作が行われていた。山を切り拓いた棚田のために造った見事な石積みが残る。頼母の住民が移転し廃村になると同じ時期に米作も行わなくなった。
太地