三木浦文化財
高野山から新宮を経て、海路より伊勢二見浦へと旅をした西行法師。旅の途中、三木浦で詠んだと思われる歌「年経たる浦の海士人言問わん波をかづきて幾世過ぎにき」が『山家集』におさめられている。
三木城は、戦国時代に三木浦の武将三鬼新八郎の居城であり、天正3年(1575)から6年かけて、4回の戦禍をうけている。
天正3年三木城は新宮の堀内氏の攻撃をうけたが、三鬼新八郎は九鬼嘉隆の援軍を得て堀内勢を破った。しかし間もなく三鬼氏と九鬼氏は不和となったため、再び堀内氏の攻撃をうけて三木城は落城した。
その後、紀伊長島城主・加藤甚五郎が急襲。堀内は2000の兵力を率いて夜討ちをかけ、度々の戦場となりました。
寛永19年(1642)5月没、源花智水信女の墓。
この場所は三鬼氏の墓地であったが、整地により小型の五輪塔や石塔が埋められ、現在はこの1基が残るのみ。
上から3番目の「火輪」が欠如しているが、高さ150cmという江戸初期の大型五輪塔である。
御祭神は、木花咲耶姫。山上の石室には修験者の石像を安置。集落に悪魔や悪病が入るのを防いでくれると伝わる。
浅間神社の隣にある祠に不動明王が祀られている。三木浦の漁師が海上安全、大漁満足、村の繁栄を祈願したのが始まりと言われ、明治年代にはすでに存在していたと伝わる。
荒波が打ち寄せ鋭く切り立った高さ70~100mの柱状節理の岩壁がそそり立つ景勝地
海金剛
三木埼灯台
狼煙場の創設は、寛永12年(1635)の文書にも所見される。
九木崎遠見番が、熊野灘の沖合いを航行する異国船を発見したとき、近隣の浦村へ急を知らすため狼煙をあげた。雑木林に守られ、創設当時の姿を残している。